難民とはだれか

難民とはだれか

これは、04年7月3日に京都大学で行われた「パレスチナ 響きあう声〜E.サイードの「提言」から〜」というNHKの特集番組の上映会の冊子に掲載されたものです。

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徐京植(ソ・キョンシク)の著作に私が最初に出会ったのは大学に入って間もないころだった。在日朝鮮人のある友人が紹介してくれたのだった。その研ぎ澄まされた、しかし熱のこもった議論に、これまでには感じたことのない興奮と、衝撃と、苦々しい焦燥感にも似た「なにものか」を感じたのを、今でもまざまざと思い出すことが出来る。



私が最初に読んだのは、彼の三冊目の評論集である『半難民の位置から―戦後責任論争と在日朝鮮人』(影書房、2002)である。


この著作のタイトルにあるように、彼は自らの立場、つまり在日朝鮮人を「半難民」と規定する。徐が自らをそのように規定する/呼称する理由の一つに、80年代に入って叫ばれるようになった「国際化」という号令の中で、「難民」という問題設定が一般的に語られるようになったにもかかわらず、日本という国家が自ら作り出し自身の内部に孕ませている「難民問題」(つまり「在日朝鮮人問題」)に対してあまりにも盲目的(あるいは意図的に黙殺する)であったという批判を込めている。しかし、そのようなある種の「戦略性」を孕んだ理由とは別に、徐はパレスチナを代表する作家ガッサン・カナファーニーの小説「太陽の男たち」と「ハイファに戻って」を読み、自らが「(半)難民」であるという自覚を得たのだと語る。



つまり、徐はアジア大陸の東端の地・日本で、アジア大陸の西端の地・パレスチナを深く見つめることで、在日朝鮮人としての自分とパレスチナ人との間に存在する「何ものか」を読み取ったのである(1)。言い換えれば、徐はパレスチナという地/知を回路にして、歴史的存在としての自分の立ち位置――それはアイデンティティやポジショナリティ(立場性)という言葉と置き換えることができるかもしれない――を感じ取ったのであった。



パレスチナ」を自らへの「問い」として突きつけながら考える徐の「読み」は、E.サイードの著作を読むときにも、変わらない。徐はサイードが昨年の9月に他界したために急遽組まれた『現代思想』(青土社、03年11月臨時増刊号)の特集に収められた論文「真実を語り続けようとする意志」のなかで、「ディアスポラ文学」の「例外的な成功例」としてサイードの『遠い場所の記憶――自伝』(中野真紀子訳、みすず書房、2001)を挙げている。そして、「この物語は最初の一行から最後の一行に至るまで、共同体の自明性に安住していては本当には理解しえないはずのメタファーやウィットに満ち満ちている」がゆえに、「日本の読者にどの程度理解されうるかという点については懐疑的」だとしながら、同書の冒頭の一部を引いている(2)。



しかしつねに何よりも先にきたのは、然るべきありようから自分がいつも外れているという感覚だった。サイードという紛れもないアラブ系のファミリーネームに無理やり継なぎ合わされた「エドワード」という馬鹿げてイギリス風の名前。わたしがこれに順応する――いや、正確には、さほど不快を感じなくなるまでには、五十年ほどの歳月が必要だった。



そして、徐はこのエピソードに「うんうんと、つい頷いてしまうほどに」共感しながら、自らの立場とつき合わせる。



私が子供の頃、私たち一家は日本式の姓名を使っていた。ある時、中学に入学する時のことだが、兄たちの強い意向を受けて、朝鮮式の本名を使うことになったのだが、その時点で、私は「徐」という紛れもない朝鮮系のファミリーネームと、それに無理やり継なぎ合わされた「正志」という馬鹿げて日本風の名前を名乗ることになってしまったのである。…その後、…故郷の村の長老から助言を得て「京植」といういかにも朝鮮風の名前を新たにつけたのである。そうした手続きをとっていなかったら、私はいまも朝鮮風の姓と日本風の名、つまり歴史上の被支配者風の姓と支配者風の名という、植民地支配の記憶そのものといえるようなぎこちない姓名を使用していなければならなかったはずなのだ。/この話を煩わしいと感じる人は、姓名という記号を歴史的、政治的に形成されるものとして認識していないのである。すでにマジョリティの資質十分といえよう。(「真実を語り続けようとする意志」)



彼にとって、パレスチナという地/知は、決して「国境の向こう」のことではなく、まさに自らのことなのだ。同じマイノリティとして。同じ植民地主義の「ひき臼でひきつぶされる」(passing through the mill)存在として(3)。同じ国民国家の間隙にいる「難民」、あるいは「ディアスポラ」(離散)な存在として。



もちろん、パレスチナ/イスラエル問題、在日/日本人問題、あるいは朝鮮/日本問題には、それぞれが有する固有の背景がある。しかし、パレスチナをみつめる「日本人」のなかで、その問題を「国境の向こうの出来事」ではなく、徐のように自らへの「問い」として捉えているものがどれだけいるだろうか。――パレスチナでなくてもいい。イスラエルを、アメリカを、イラクを、朝鮮民主主義人民共和国を見つめるなかで、それが自らへの「問い」として回帰しているだろうか。「他者」の問題とされているものを「我々」の中に介入させること、あるいは「他者」の問題とされているものを「我々」の問題として捉えなおすこと。そして、他者/我々の間にある、この/(スラッシュ)を作り出すポリティクスや権力配置の構造を暴きだし、解体すること。それが今求められていることなのではないだろうか。

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(1)正確には、パレスチナから日本にいる徐への受容の過程で、パレスチナから一旦韓国を経由している[参考:徐京植「土の記憶」『「民族」を読む――20世紀のアポリア日本エディタースクール出版部、1994]

(2) p.80-81

(3)徐京植、ミシェル・クレイフィ「普遍主義というひき臼にひかれて」『新しい普遍性へ―徐京植対話集』影書房、1999、p322-323